NPO法人 AWC 水道事業活性化懇話会

碓井 昭彦

ネパール視察旅行(2002年2月13日~17日)の感想
2002 . April. 01            碓 井 昭 彦

1 先入観は駄目

ネパール視察旅行が企画された時は11月頃に行く予定だったのが、例のWTC自爆テロの影響で延期になり、結局2月に行くことになった。日本で想像していたネパールは、「ヒマラヤ山脈と氷河の麓にある寒い国」のイメージと、それに「お釈迦様の生誕地」という程度なので、「なんでよりによって厳寒の2月に?」 とは思ったが、宮田会長の「ちょっとも寒いことはない」の言葉に騙されたつもりで参加することにした。
勿論会長の言葉を信用していないのでオーバーコート、セーターを着込みさらにカーデガンまでトランクに入れて関空を出発した。

飛行機の中ではオーバーコートとブレザーは脱いでいてセーター姿だったが、到着時にすべてを着込んで準備OKのつもりだった。カトマンドゥに到着して空港を出ると日本の春を思わせる陽気だったので、すぐにオーバーを脱いでトランクへ納めた。
時間を置かず、セーターも暑苦しくなって脱いでしまった。実際まさかこんなに暖かい所とは想像していなかった。

日本のコンサルタンツである「メイケン」とネパールの「パシフィックグループ」との合弁会社「MDT」の社員であるラメシュ氏の話によると、カトマンドゥでは雪が降ることはなく、彼自身日本で初めて雪を体験したのだそうだ。彼の話では、ネパール政府の観光政策で「ネパールといえばヒマラヤ山脈」の宣伝が徹底し過ぎて、「ネパールは寒い」というイメージが世界中に定着してしまったとのことである。

首都カトマンドゥの標高は1000m 程度で、緯度は沖縄と台湾との中間程度だそうだから、沖縄に六甲山があればその山頂にいるのと同じで、暖かいのは当然。日本で持っていた先入観はいかに好い加減で、根拠も不確かであるかが暴露されてしまった。
ネパール訪問が20回以上という宮田会長によれば、「何度”寒くは無い”と言っても信用しないので、結局は体験してもらうしょうがない」との事。失礼しました、反省します。
現地での4日間(ポカラの町を朝5時半に出発してヒマラヤの朝焼けを見に行ったときを含めて)一度もオーバーとセーターを着込むことは無かった。

2 貧困と勤勉

カトマンドゥ空港を出た途端ポーターの集団に囲まれた。中には20歳台の青年もいたがほとんどは10歳台の少年である。空港の出口のフェンスから駐車場のマイクロバスまでの数10mの間、スーツケースを運んでわずかのチップを稼ごうと群れているのである。
ヒンドゥ寺院などの観光地では土産物売りがしつこく付きまとって離れないが、警察は全く取り締まる気配がない。
繁華街ではハンセン氏病患者と思われる手肢をした物乞いが何人も街路に座っていて、世界最貧国グループでも下位にあるこの国の状態を実感した。
現地滞在の町田さんから「日本とは貨幣価値が違うので、チップやあげるお金はできるだけ少なく。でないとネパール在住の日本人が迷惑します」との注意があった。在住している日本人のためだけではなく、少年達があぶく銭に慣れてスポイルされないようにとの配慮でもあったのだろう。
敗戦直後に街角で座り込んでいた靴磨きの少年、「ギブミーチューインガム」と叫んで進駐軍のジープにまとわりついていた子供たち、軍歌をアコーデオンで弾きながら募金を求めていた傷痍軍人と同じ構図である。

カトマンドゥからポカラまで飛行機で移動したとき、下を見て驚いた。飛行機の下に見える山(海抜2000m程度か?)はほとんどが禿山になっている。はじめは燃料用の薪のために伐採したものだと思っていたが、窓から目をこらして見ると、麓から山頂まで一山全体を段々畑にしているのである。天水しか期待できないはずだから、水稲ではないとは思ったが、それでも雨が少ない時はどうするのか心配になった。

朝焼けのヒマラヤ見物のため、ポカラの町近くの小山に出かけた時も山の斜面は全て段々畑になっていたので、案内人(これもチップ目当ての子供が多かった)に聞いてみると、作物は麦かトウモロコシ、雨の少ない時は人が下から水を運び上げるのだそうだ。
朝焼け見物の出発は朝5時半で、外は真暗闇なのに時々ライトに数人の人が浮かんでくる。籠に入れた農作物を朝市に運ぶ農婦や仕事に出かける男の姿である。
祖母から聞いた「百姓は、朝は朝星・夜は夜星」という言葉を思い出した。平らな盆地では水稲用の田圃も見かけたが、1枚の圃場は1反以下で、畦畔も不整形なため生産性は良くないように思えた。

カトマンドゥの「MDT」での仕事を見学させてもらった。ちょうどマッピングの入力作業中で、若い職員約10名が日本から送られてきた図面を見ながら仕事に励んでいた。最初の図面はともかく、コンピューター化してしまえばメールでやり取りするので、ネパールと日本との距離は何の問題も無いらしい。学生のアルバイトを日本の20分の1程度の給与で使っているそうだ。
日本の学生とは異なり、大学に行きながら仕事をするのではなくて、1~2年仕事をしてお金が貯まったら授業料を払って大学に行くのだそうである。
従って、大学の卒業は24~5歳になる。もっとも大学を卒業しても、ネパール国内では適当な仕事が少ないので、インドを始め外国に出てゆくことが多いとの事。「学生達は勤勉で頭脳も良いので今後の期待が大きい(今はまだ収益が良いとはいえない?)」と会長が説明してくれたが、ネパールでの就業チャンスが増えたことに違いはない。

私が大学生の頃には、家族からの仕送りがほとんどなく、アルバイトだけで生活していた友人がいた。その頃はまだ「苦学」という言葉が現実のものとして感じられていたのだが、この言葉を聞かなくなったのはいつ頃からだろう。

2 カレーと醤油

朝食は全てホテルのバイキングを取ったが、それ以外はレストランが主体で、「MDT」の社員食堂も体験した。
ホテルのバイキング料理はは西洋風ということなのだろうが、普通の西洋風バイキング皿もあったが、やはりカレー味の料理皿が数多く出されていた。
王宮料理を試してみたが、このレストランでもカレー味が基本である。カトマンドゥでは日本料理が2回あったが、さすがにここではカレー味の料理は出てこなかった。「MDT」の社員食堂ででは、職員に出しているのとほとんど同じ食事を出してもらったが、鳥などの肉料理はもちろん野菜や豆にいたるまで、出てくる料理は全部カレー味。

帰国目前でふと気が付いたのは、インド人もそうだと思うがネパールの人達にとってのカレー味は、日本人にとっての醤油味と同じではないかということである。 最近でこそ家庭料理は中華風あり、西洋風ありになってはきているが、50年前なら日本の家庭料理は煮物を中心にほとんどが醤油で味付けされていた。 実際、天麩羅は勿論、トンカツでもカレーにでも醤油で味付けする日本人は結構多い。ほかの調味料が出ているのにわざわざ醤油を出してもらう人もいる。本人にとっては醤油味が一番安心なのだろう。そういえば、以前アメリカ人が「日本人は魚臭い」とか「漬物臭い」と言っているという話を聞いたことがある。
ネパールの人はカレー料理ばかりで不満が無いのかと思っていたのだが、ネパールの人たちにとっては、「カレー料理」を食べているつもりはなくて、カレーは普通の調味料に過ぎないのだろう。


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